聴覚芸術という性質

音楽が視覚芸術と違い聴覚芸術、つまり、体の中に直接入ってくる芸術であること。
あまりにも耳障りで理解不能な作品を、人間は本能的に避けてしまう。心底嫌な音楽を聴くと、しばしば頭痛がし、嫌いなメロディが耳にこびりついて離れず、気持ち悪くなることもある。家電量販店に行くとテーマソングが耳から離れず気持ち悪くなってくる、例のアレである(あんなところで一日中勤務している店員さんには同情に耐えない)。
もちろん心底素晴らしい音楽を聞いた時の感動も、体の中に入ってくる芸術であるだけに格別なのだが。
この点で、すでに聴いたことのあるタイプの音楽、というのは有利である。


これが美術や工芸、建築なら、一度見て「なんだこれクソじゃん」と思っても、気分が悪くなるような作品はよほどの前衛を除き、そうはない。
あんまり見苦しければ目をつぶればいい。
目をつぶるのは簡単だけど、耳を塞ぐには両手や耳栓がいるし、それでも完全に遮音することはできない、人前で耳を塞ぐのはマナーとして・・・という問題もある。


現代美術で便器を美術館に展示するというのがあるが、まあ実際に排泄に使用したものではないだろうし、気分が悪くなるようなことはないだろう。
しかし排尿や排便の効果音を使った現代音楽を、もし数分にわたって聴かされたら、どうだろう。多くの人が気分を悪くするのではないだろうか。現にそんな現代音楽は、いくらなんでも聴いたことがない。タブーを破るのにも程があるということだろう。


また美術なら、一見イマイチでも、何かの機会にまた見返してみたら意外と良かった、ということもあるけど、不快な音楽はもう二度と耳にしたくない。芥川也寸志が『音楽の基礎』
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で書いている通り、駄目な音楽より無音の方がましなのである。