漫画はどう批評されるべきか

nenemuu2005-04-13

とかそんな難しい話じゃないけど。


岡田史子に対するやや辛辣な批評をアマゾンで見かけた。

ファンの人や、当時岡田作品を読んだ記憶のある方には、また別の味わいがあるのかもしれません。それは否定しないです。以下は、本作ではじめて岡田史子に接したぼくのような人間の感想です。

正直、この作品集、読むに耐えなかったよ。「絵本のような緻密さを見せ、独立したカットとして成立する秀逸なコマが数多く存在する」なんて、監修者・青島広志は言うけれど、ぼくはそうは思いませんでした。むしろ乱雑だったり整理されてないコマが目立つと思うし(もちろん「狙い」じゃないだろうとこについて言ってます)、一作ごとに絵柄をかえているのは確かに「実験的」なのかもしらんが、元ネタが消化しきれずにそのまま出てしまっている感じ(しかも狙ったとこにいけず、ず、ラクガキになってしまっている)。絵もヘタだ。かといって、最近よくある貸し本マンガ発掘作品なんかと比べてもトビや勢いがあるわけじゃないし。そういう点でも楽しめない。

間違いなくマンガがヘタな作家、それは言えると思う。これが好きってのは、よほど作家と相性がいいか、キッチュ趣味を持っているか、そのどちらかだよ。ぼくは残念なことに、彼女の描く世界にまったく惹かれなかったし、そういう趣味でもないので、読んでて辛かったと、そういうことです。

もちろん、岡田史子がどうしても必要な、そんな人にとっては本作は宝物であること間違いないです。本の製作にかかわった人の、岡田作品への愛情がにじみ出てきてますし、未発表原稿なども多く、好感が持てる本作りです。


まあ確かにある意味そうかもね。
そもそも岡田史子はいつも、「誰々が天才と評した」という形でばかり評価されている。その誰々に入るのは、萩尾望都だったり高野文子だったり四方田犬彦だったりするんだけど(NTT版全集を企画したのは四方田さんだったよう)。でも「あなたは岡田の漫画をどう評価するの?」というと、大抵の人は、うーん・・・なんだよな。
正直私も、難解でなんとも評価付けかねる、としか言いようがない。その難解さが「苦悩を絵にすることの困難さがコマににじみ出ている」のか、「単なる技術不足」なのかは、今や誰も判断できない。著者はもうこの世にいないし。


そして、もし著者が男性だったら、ここまでもてはやされただろうか、という疑問も。「永島慎二エピゴーネン」と呼ばれて終わってしまった可能性もあると思う。男性の場合「食っていけるか」というのは重要な問題で、だからこそ「日和って」メジャーになってしまったりする。「伝説」にはそう簡単になれないのだ。つげ義春(兄弟)でもなければ。そのあたりは
http://media.excite.co.jp/book/special/okada/p01.html

今回の出版はありがたいことだけれども、嬉しいというより、不思議な感じがしますね。東京に住んでいたころには、ファンの人がたくさん集まってきて、男性はたいてい私に恋をしたりしてね。わたしに直接会うと、漫画以上にわたし自身に興味を持たれることがよくあったんです。わたしの漫画の話はほとんどしなかった。みんな自分でも描く人だったしね。

こういうとこにも現れているような気がする。


また、もし岡田史子がもう20年か30年遅く産まれたとしたら、はたして正当な評価は得られたのかどうかについても、はなはだ怪しいような気もする。これが高野文子なら、卓越した漫画表現の「技術」を持っていたから、どんな時代でも確実に「天才」と評価されただろうけど。

90年代後半以降、「変わり者」に対する理解が進んだ一方で、やや特異な個性を持った人を「不思議ちゃん」と安易にカテゴライズしてしまう傾向も強まった。
ある意味そういう人にとっては、かえってやりにくい時代なのかもしれない。もちろん、ほんとに特異な個性をもった人なら「不思議ちゃん」に埋もれるようなことはないのだが、「不思議ちゃん」的評価に安住してしまって、スポイルされてしまう人も、案外いそうな気がする。


さらにいえば、岡田史子に対する評価って、漫画を表現論ではなく「文芸の一変種」としてのみ評価する、日本の漫画評論の伝統に強固に根ざしているように思える(日本以外の国に漫画評論が存在するのか知らんが)。これは、それこそ最近の「岡崎京子ポストモダン社会」みたいな評論
平坦な戦場でぼくらが生き延びること―岡崎京子論 (例えばこんなの)
に至るまで、一向に変わっていない。


だいたい岡崎京子を表現論で論じた人は、未だかつて、一人でもいるのか? 私が知る限りでは一人もいないぞ。実は「表現論的視点」は岡崎京子を解釈する上で、ものすごーく重要な視点だと思うんだけどなあ。
でも漫画表現を論ずるには、漫画がある程度描けなければならない、少なくとも「どう描くか」について熟知していなければならない、という高いハードルがあるためか、文芸畑の人は屁理屈をこねて論ずることに終始してしまっているわけだ。


うーん・・・相変わらずまとまりが悪いが、色々と考えたところをゴチャゴチャと書いてみた。